『美術手帖』5月号 SEA展のレビューを問う

2017-05-19 08.05.58

 NPOアート&ソサイエティ研究センターが主催した「ソーシャリー・エンゲイジド・アート:社会を動かすアートの新潮流」展のレビューが『美術手帖』5月号(2017年4月17日発売)に掲載された。「地域アートの延命措置」と題した筆者の主張には見過ごせない誤りがあり、さらに著作権を有する作品画像の掲載許可手続きにおいても編集部への疑問が残る。
 私たちは、5月号発行後すぐに美術手帖編集長と美術出版社社長にたいし、電話と書面により本件の真意を尋ねた。しかし回答願いの期日が過ぎても返答を得られないため、この場を借りて2点の問題を公開したい。

1. レビューにおける事実誤認と根拠を示さない批判

 レビューの筆者は黒瀬陽平氏であった。
前提として、評論は筆者の表現の場であり、「表現の自由」は守られる権利であるが、編集部は出版の前に内容に誤りがないかチェックする必要があるのは言うまでもない。私たちは黒瀬氏より直接取材を受けていない。黒瀬氏がレビューの冒頭で示したSEAの定義だが、これは本展覧会を評論する上で、最も重要な前提となる。
「SEAは「関係性の美学」(ニコラ・ブリオー)から不必要と思われる美学的要素を削ぎ落とし、より直接的に現実社会に関わり、何らかの社会変革(ソーシャルチェンジ)を起こそうとするアートの実践だとされている」
とあるが、SEAとは美学的要素を「削ぎ落とし」、捨て去ったものではない。黒瀬氏も本文で紹介している、パブロ・エルゲラの言説にもとづけば、SEA とは美学的要素とそれ以外の要素(社会的・政治的等)を併せもったものだ。
SEAの定義からしても、筆者がこの分野への基本的な知見を欠いており、国際的な流れを理解していないことは明らかであり、日本で初めて本格開催されたSEA展の論者として的を射た批評ができる人物ではないといえる。美術手帖がなぜこの人選をおこなったのか疑問である。
 さらに作品の評価についても、黒瀬氏は、スザンヌ・レイシーの作品について、具体的な根拠も示さず「劣化」と批判し、同様に、若木くるみの作品を「幼稚」と結論づけている。こういった言説が一流の美術評論誌で活字になることは、作家の評価に大きな影響を与えるわけで、そのことについて編集部は最大限の注意を払うべきである。

2. 作品画像の掲載手続きへの疑問

 私たちは美術手帖編集部の依頼により作品画像を提供した。大きく掲載されたスザンヌ・レイシーの作品をはじめ、作家の著作権は存在しており、展覧会紹介の目的に限って、作家に代わり私たちが画像提供している。最終確認として送られてきたレイアウトには、黒瀬氏の原稿はなく、独立した記事のごとく片ページのみPDFで送られてきた。
 だが、実際は黒瀬氏の原稿と写真は、見開きでひとつの記事であった。スザンヌ・レイシーの写真は、編集者から最初に希望されたものではなく、後になって追加依頼があったもので、もし原稿を見ていたなら、私たちがレイシーの写真を提供することはなかった。

 今回の展覧会は、文化庁、アーツカウンシル東京、ドイツ文化センター、オランダ大使館、資生堂などによる助成と、展覧会の主旨に賛同する多くの個人の協力を得て実現したものだ。アートが人々の生活から乖離したものではなく、生活そのもの、生き方そのものがアートに直結しているとする「Living as Form展」(2014年)の開催から3年目に、この「ソーシャリー・エンゲイジド・アート展」の実現に漕ぎつけることができた。それはひとえに、実社会と向き合い、いかにその課題に向き合えるのか、日夜模索しているアーティストの実践を伝えたいという思いからであった。そのために、私たちはSEAに関する調査研究をおこない、小規模の展覧会や関連イベントを実施し、パブロ・エルゲラの著書の翻訳出版などをおこなってきた。
 現在国内で開催される地域でのアート・プロジェクトでは、人のつながりや絆づくり、人々の内発的な表現行為に焦点が当てられているが、社会的に弱い立場にある人々、過酷な環境で生きる人々の直面する社会課題を扱うアート活動はいまだ少ない。
 ソーシャリー・エンゲイジド・アート展は、そうした国際・国内の潮流を並列させ、日本でのアートと社会の関わり方を再考する意図があった。その真意をくみ取らず、私たちの継続的な活動も理解せず、一方的な批判が活字という形で発表されたことは、大変残念なことである。

ソーシャリー・エンゲイジド・アート展 実行委員会一同

参考リンク:SEA展来場者のアンケート結果 http://www.art-society.com/sea

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