アーティストは自然・環境・気候危機といかに向き合っているか?
Vol.4 エコロジカル思考 ー水が結ぶシェアリングー 

ソーシャリー・エンゲイジド・アート ダイアログ・シリーズ
Socially Engaged Art Dialogue Series


アート&ソサイエティ研究センターは2014年以降、社会的課題に取り組むソーシャリー・エンゲイジド・アートについての調査、研究、出版、展覧会や研究会の開催、アーティスト支援やプロジェクトの実践を継続しています。今回のダイヤログ・シリーズでは、自然、環境、気象変動に関心をもつアーティストが、地球環境における危急の課題にいかに向き合い、自らの創作活動との関わりをどのように捉えているか、生の声で聞き、聴講者と共にディスカッションします。

本トークでは、アートの視点を通して、マレー・ポリネシア世界における海上での親密なつながりを通じたエコロジー思考に焦点を当てます。歴史的な友好関係と現在の対話を通じて、この地域の島々は、物語、場所に基づく知識、社会正義に対する情熱を共有し再び結びついています。マレーシア、シンガポール、ハワイ、そして瀬戸内海に停泊しながら、海景、貿易風、波が、今日の多次元的な現実をどのようにナビゲートしてくれるのか?そこに流れるエコロジカル思考を学びます。社会階層と文化的背景を超えて食物を共有し、国境、植民地時代の隔たり、社会的距離を乗り越えて生き残る。それだけでなく、繁栄するために革新的なアプローチに取り組んでいます。科学と芸術が交錯し、環境に対する意識を高め、閉されても常に存在し続け、将来にわたって繁栄し続ける非公式な貿易ネットワークに関する知識を活性化する。そのための実践的な取り組みについてお話しします。
協力 Kelab Alami Mukim Tanjung Kupang, Johor, Malaysia https://kelabalami.weebly.com/

開催概要

日 時 2022年9月30日[金]19:00–20:30
会 場 ZOOMによるオンライン開催
定 員 30名(先着順) 
参加費 無料

ゲストプロフィール

ジェームス・ジャック James Jack

ポジティブな関係性を構築するため、生きているコミュニティーと環境に関与するアーティストとして活動。ストーリー、海、大地を現代アート実践の中心に据えて研究ベースを築き制作しています。多岐にわたるオープンな芸術的アプローチのキーワードはエコロジカル、協働的、オルタナティブ、列島など。アートを中心として関係性を再生するために、創造し、考察し、繋がりながら想像的な方法でボーダーを越える活動をしています。

2009年 スタンフォード大学日本研究センター 修了
2015年 東京藝術大学美術研究科 博士 修了
2015年 南洋理工大学現代アートセンター アーティストインレジデンス
2013/2016/2022年 「瀬戸内国際芸術祭」 展覧会
2022年 「lumbung: documenta fifteen」展覧会

お申込み

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主催:NPO法人アート&ソサイエティ研究センター

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夏休みイベント| 空想植物採取 ーつるみのお花の標本つくりー

植物や花をモチーフに独自の手法で押し花のような作品を手がける今村文さんを講師にお迎えし、横浜市鶴見区で夏休みイベントを開催いたします。
アート&ソサイエティ研究センターでは、地域の持続可能性や生物多様性をテーマに、みどり×アート×人びとをつなげるアート・プロジェクトを鶴見みどりのR1(一般社団法人鶴見みどりのルート1をつくる会)とABINC(一般社団法人いきもの共生事業推進協議会)と共に検討してまいりました。
今回のイベントでは今村文さんと国道1号線周辺の緑をテーマに作品を制作します。
身近な植物や葉っぱからどんな花が咲くのでしょうか。葉っぱから想像をめぐらし、自分だけのオリジナルな花を咲かせ、標本のような作品つくりを体験してみませんか?

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概要

場 所:高田そろばんスクール 〒230-0014 神奈川県横浜市鶴見区諏訪坂5-9
日 程:2022年8月21日(日)
時 間:10:00〜15:00(※出入り自由。各ワークショップの開始時間は以下になります) 
①10:00~ ②11:00~ ③13:00~ ④14:00~
講 師:今村文
定 員:各回10組程度(未就学児は保護者と一緒にご参加ください)
参加費:無料
主催・運営:一般社団法人鶴見みどりのルート1をつくる会
企画・協力:一般社団法人いきもの共生事業推進協議会
特定非営利活動法人アート&ソサイエティ研究センター

お申込み/お問い合せ先

鶴見みどりのルート1をつくる会(左記の申し込みフォームよりお申込みください。)
tel: 045-642-5525
email:info@tsurumimidori-r1.jp
※新型コロナの感染状況によりやむを得ず延期となる場合がございます

アーティスト プロフィール

今村 文(Fumi IMAMURA)

1982年愛知県生まれ。2008年金沢 美術工芸大学大学院美術工芸研究科絵画専攻油画コース修了。愛知県在住。主な活動としては、2015年に芸術植物園(愛知県立美術館)参加。2016年にあいちトリエンナーレ2016参加。
https://imamurafumi.weebly.com/

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アーティストは自然・環境・気候危機といかに向き合っているか?
Vol.3「氷のなかで」

ソーシャリー・エンゲイジド・アート ダイアログ・シリーズ
Socially Engaged Art Dialogue Series


アート&ソサイエティ研究センターは2014年以降、社会的課題に取り組むソーシャリー・エンゲイジド・アートについての調査、研究、出版、展覧会や研究会の開催、アーティスト支援やプロジェクトの実践を継続しています。今回のダイヤログ・シリーズでは、自然、環境、気象変動に関心をもつアーティストが、地球環境における危急の課題にいかに向き合い、自らの創作活動との関わりをどのように捉えているか、生の声で聞き、聴講者と共にディスカッションします。

開催概要

日 時 2022年3月10日[木]18:30–20:00
会 場 ZOOMによるオンライン開催
定 員 30名(先着順) 
参加費 無料

ゲストプロフィール


上村洋一 KAMIMURA Yoichi
http://www.yoichikamimura.com
1982年千葉県生まれ。聴覚と視覚の関係性のなかから風景を知覚する方法を探り、フィールドレコーディングによる環境音と、ドローイング、テキスト、光など視覚的な要素と組み合わせ、サウンド・インスタレーションや絵画作品、写真・映像作品、パフォーマンスなどを制作し国内外で発表している。近年は、自然環境と人間の感覚や記憶の関係性に関心を持って、地球温暖化で減少を続けている北海道知床のオホーツク海の流氷のリサーチを元に制作をしている。
近年の展覧会/イベントに「Yoichi Kamimura & Olli Aarni at Temppeliaukion kirkko」(ヘルシンキ, フィンランド, 2021), 「Phonurgia Nova Awards 2021」(パリ、フランス, 2021), 「From Seeing to Acting」(アムステルダム, オランダ, 2021 ), 「Exchange Residency Program 2021」(ヘルシンキ, フィンランド, 2021), 「Land and Beyond」(東京, 2021),「 冷たき熱帯、熱き流」 (東京 , 2021),「 道草展:未知ととも に歩む」 (水戸, 2020), 「Hyperthermia——温熱療法」(東京, 2019)など。音響作品に「re/ports」 (Ftarri, 2019)、2022年2月にイタリア・ミラノのレーベルVertical MusicからFrance Jobinとの共作カセットアルバムをリリース予定。

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主催:NPO法人アート&ソサイエティ研究センター

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アーティストは自然・環境・気候危機といかに向き合っているか?
Vol.2 「「人類と地球、新しい生の形態について」

ソーシャリー・エンゲイジド・アート ダイアログ・シリーズ
Socially Engaged Art Dialogue Series


アート&ソサイエティ研究センターは2014年以降、社会的課題に取り組むソーシャリー・エンゲイジド・アートについての調査、研究、出版、展覧会や研究会の開催、アーティスト支援やプロジェクトの実践を継続しています。今回のダイヤログ・シリーズでは、自然、環境、気象変動に関心をもつアーティストが、地球環境における危急の課題にいかに向き合い、自らの創作活動との関わりをどのように捉えているか、生の声で聞き、聴講者と共にディスカッションします。

開催概要

日 時 2022年1月13日[木]19:00–20:30
会 場 ZOOMによるオンライン開催
定 員 30名(先着順) 
参加費 無料

ゲストプロフィール

宇多村英恵 UTAMURA Hanae

1980年茨城県生まれ。2004年ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジ大学ファインアート学科卒業。10年ロンドン芸術大学チェルシーカレッジ大学院ファインアート学科修了。14年にシュトゥットガルトのレジデンス施設「Akademie Shloss Solitude」のフェローシップをうけ、渡独。滞在中に制作した「Across the Grid」を発表。ポーラ美術振興財団の助成を受け、ベルリンのレジデンス「クンストラーハウス・ベタニエン」で15年から16年にかけて滞在制作を行い、「Holiday at War 戦場と休日」を発表。2018年に資生堂ギャラリーの個展で資生堂アートエッグ賞を受賞。その後、2018年から2019年にかけて、文化庁新進芸術家支援制度により1年間ニューヨークで研修を行う。ニューヨーク大学の客員研究員を経て、現在はニューヨーク州ローチェスター大学で教鞭をとる。主な個展に「Holiday at War 戦場と休日」(資生堂ギャラリー、東京、2018)、現在MOMA、また東京都現代美術館で回顧展が11月より予定されている久保田成子氏との二人展、’Resonances of DiStances/共鳴する距離感 ‘, (basedonart gallery, デュッセルドルフ、ドイツ、 2021)、グループ展に「ecofeminism(s)」(Thomas Erben Gallery、ニューヨーク、2020)、「Contretemps.」(NYU Gallatin WetLab、ニューヨーク、2021)等。

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主催:NPO法人アート&ソサイエティ研究センター

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「Water Seeds 隅田川を舞台とする新たな環境ミュージアムの提案」
国際デザインコンペ* プロポーザル by Sumida River Design Collective
*RMCA (Reimagining Museums for Climate Action)(気候変動に対する行動のためのミュージアムを再構想する)


A&Sと専門家で結成したチームによるプロジェクト提案『Water Seeds – a new platform for climate action on a river』がRMCA国際コンペで入選しました。応募までの経緯やプロポーザルの内容報告、今後の活動の方向性などについて、メンバー全員で語る、オンラインで公開するトークセッションを行います。
(RMCA国際コンペ入選展示の詳細はこちらから)

開催概要

日 時 2021年11月30日[木]19:00–20:30
会 場 ZOOMによるオンライン開催
定 員 30名(先着順) 
参加費 無料

Sumida River Design Collective メンバー

渡辺猛(建築家/株 佐藤総合計画)
小寺亮(建築家/株 佐藤総合計画)
武田史朗(千葉大学大学院園芸学研究院教授)
NPO法人アート&ソサイエティ研究センター SEA 研究会
(清水裕子、秋葉美知子、工藤安代、徳山貴哉)

アジェンダ

1.メンバーの自己紹介
2.国際コンペの概要(秋葉)
3.応募~提案までの経緯(清水)
 前段での「墨田芸術祭 Seeds」(渡辺)
4.プレゼンテーションの内容説明(小寺) 補足説明(武田)
5.3331での展示について(清水・工藤・藤元)
6.今後の実現に向けて(可能性について意見を聞く:全員)
7.フリートーク、Q&A(15分)

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主催:NPO法人アート&ソサイエティ研究センター

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自著紹介『GEIDO論』(熊倉敬聡著)

「GEIDO」って何だろう?
 本のタイトルだけ見てもよくわからないし、目次を見ても、挙がっているキーパーソンたちから内容はなんとなく「あたり」がつくかもしれないけれど、今ひとつしっかりしたイメージを結ばないことと思う。そこで、この場を借りて、なるべくわかりやすくこの本の紹介をしてみようと思う。

 「GEIDO」とは、端的に言えば(あまり端的には言いにくいので誤解を招くかもしれないが)、とりあえず「Art (2.0)」以降の人類の創造性の在り方と言えよう。私の歴史観では、そして最近では小田部胤久などのきちんとした美学者も言っているが、Artとは、何も人類に普遍的な概念・実践ではなくて、いたって歴史的で地域的な概念で実践であるということ、具体的に言えば、18世紀中頃の西ヨーロッパで「作られた」概念・実践であるということをまず押さえる必要がある。この点をきちんと押さえないと(日本では押さえられる人がいたって少ないのだが)、Art、あるいはその日本的翻案である「芸術」や「アート」についての議論は混乱するし、不毛にさえ終わる。
 歴史的に「作られた」、つまり「生まれた」概念・実践であるがゆえに、当然、歴史的に「終わり」、「死ぬ」わけで、これも私の見方だと、Artはもうとっくに「死んで」、「終わって」いる。というか、「殺されて」しまった。いつ?――20世紀初頭。殺したのは誰か?――いわゆる「アヴァンギャルド」たち。どのように?――Non-Art、Artの〈外部〉をArtにぶつけ、粉々にすることによって。典型がマルセル・デュシャンの『泉』。「便器」という(美術館にはあるけれど)およそ「美しい」Artの対極にある「汚らしい」しかも「既製品」。そのArtの〈外部〉=Non-ArtをArtの真っ只中に時限爆弾のように仕込み、それがArtを爆破するたびに、ややこしいことにその爆破行為自体を新種のArtであるかのようにみせるパフォーマンスが繰り返される。その「Art2.0」ともいうべき、Artの死としてのArtを、以降「Contemporary Art」などともっともらしく名づけ、20世紀全般にわたって反復しつづけた。でも、そのArtの死としてのArt=Art2.0のロジックも、反復されつづけた結果、20世紀末疲弊の極に達し、自壊するにいたる…。(ここら辺の詳細は、前著『藝術2.0』に当たってもらいたい。)
 では、Art2.0が自壊するとしたら、これからの人類の創造性はどうなるのか? 消えてしまうのか? そんなわけはなく、ただ、近代においてそれが重点的に注がれていたArtと、その対極的システム=資本主義から、まったく別の未到の地へと移動していくだろう、という予測を私はもっている。その「処女地」に萌える創造の兆しを、前著では(他にいい命名法がなかったので)苦し紛れに「藝術2.0」と名づけ、今回は「GEIDO」と呼んでみた次第。
 「GEIDO」の背景にはもちろん「藝道」という古来からの身心の行の伝統があるわけだが、単にそこに回帰すればいいというのではなく、(レヴィ=ストロース風に言えば)その「冷たい」クリエーションに、現代の「熱い」クリエーションがハイブリッドに再接合することによって、第三の(「冷たく」も「熱い」)クリエーションが生みだされる。でも、なんでそれを「GEIDO」と、わざわざアルファベット表記にしたのか。それは、日本で生まれつつある第三のクリエーションの萌芽は何もこの国に特権的なものではなく、他のさまざまな国・地域で今まさにその国・地域に固有な第三のクリエーションが生まれつつあって、それを(たとえば「JUDO」や「AIKIDO」が外国でも十分市民権を得ているように)「GEIDO」と呼んでもいいのではないか。そうした国内外の動向を視野に入れるべく、あえてアルファベット表記したということ。
 
Artからアートへ、そしてGEIDOへ

 でも、そもそも、私は、若いとき、誰よりもArtにどっぷり浸かっていたのではなかったか。ステファヌ・マラルメなどという、それこそArtの可能性を極北まで追究し、しすぎたゆえにArtの不可能性へと座礁してしまった、そんな「詩人」のArtの冒険を追体験した結果、Artが孕む毒までも存分に堪能し、いつのまにか心身ともに「廃人」と化した…。そんなフランスでの7年間をなんとか切り抜けて、帰国したところが、なんとバブル真っ盛り。1991年だから、経済的にはまさに「バブル崩壊」の真っ只中。でも、文化的にはまだまだバブリーな徒花が咲き乱れていた…。そんななか、「現代アート」もまた、80年代の「くら〜い」ヨーロッパ(フランスは爆弾テロが相次ぎ、人種差別も公然と行われていた)から帰ってくると、まさに「浮世」の華やかさ満載。急にその「空元気」にほだされて、気がついてみたら、「現代アート」を研究するのみならず、評論したり、創作したり、さらには某「コンテンポラリー・ダンス」カンパニーの「ワークショップ」(当時は珍しい語だった)に7年も毎週通ったりしていた。
 そんなある日、銀座で、ドクメンタⅩのディレクターで、作家のリサーチに来日していたカトリーヌ・ダヴィッドに会ったが、開口一番、(もちろんフランス語で)「この国のどこにArtがあるの? どこにArtistがいるの?」と詰問され、こちらはいくつかの名前を挙げつつも、彼女は全く意に介さない風であったことを思い出す。つまり、当時(1990年代半ば)の日本には、彼女から見て(そしておそらく多くのヨーロッパ人から見て)Art――Art2.0も含む――がなかった、Artistがいなかったのだ! 「現代アート」は、Art(2.0)の「模造品」としか見えなかったのだ。
 もちろん、彼女のような(ヨーロッパ的に)「保守的な」キュレーターばかりでなく、「現代アート」を、欧米にはない表現だとして面白がる(たとえばMOMAの)キュレーターなどもいたが、少なくとも当時(1990年代後半)は、今では国際的にも有名・無名の「アーティスト」たちがこぞってニューヨークに移り住み、彼の地のマーケットで「Artist」として認知され、評価されるべく、自らを「売り込もう」としていたのだった。そんな最中、私自身も1998年から2年間、マンハッタンに住むことになる。当時は、トランプ元大統領の顧問弁護士となったルドルフ・ジュリアーニがニューヨーク市長の時代。彼のジェントリフィケーション政策により、少なくともマンハッタンは、夜中に平気で地下鉄にも乗れるほど治安が良くなった反面、あらゆる「やばい」ものは、島外に一掃された結果、「いかがわしい」Art2.0もきれいに「掃除」されて、ニューヨークの「アートワールド」は商業的に小洒落たもので満ち満ちていた。
 いよいよ(Artの「死」の反復で逆説的に「生き延びて」きた)Contemporary Art (=Art2.0)それ自体が末期症状を呈するのを尻目に帰国した私は、もはやそれへの「売り込み」に活路を見出そうとしていた「現代アート」にも、当然のことながら、興味を失い、徐々に研究、評論、創作などをやめていった。そして、それと同時に「では、人類の創造性がもはや(資本主義とともに)Artから離れつつあるとしたら、それはいったいどこに向かうのか?」と自問自答するようになる。しかし、その決定的な「答え」はそう簡単には見つからず、月日だけが過ぎていった…。私はとりあえず、自分の「現場」である教育の現場(それもまた過度な機能不全に陥っていた)に、自分の創造性を新たに注ぎ込み、少なくとも当時の教育界では前代未聞の「自己生成」的学びの場(「三田の家」にいきつく)を、同志たちと日夜楽しんでいたのだった。

三田の家


 そんな中、東日本大震災が起きる。当時、1歳になるかならないかの娘を抱えていた私は、放射能汚染などの不安から、西日本への移住を決心する。たまたま縁あって、京都に移り住んだ私は、この地で数々の「カルチャー・ショック」に見舞われる。その一つが、先に述べた「第三のクリエーション」の萌芽であり、「冷たい」クリエーションがおよそ存在しない東京などでは見たことのない、「冷たく」も「熱い」クリエーションの気配をここかしこで感じとり、しかしその「気配」をなんともうまく言葉や概念に落とし込めない日々が続く。
 そんなある日、ある友人が「東アジア文化都市2017京都」の一企画「PLAY ON, KYOTO」のチームに誘ってくれ、そのメンバーたちとブレストを重ねるなか、その「気配」をなんとか概念的に把捉し、表現できる機が熟していった。それが「藝術2.0」という言葉だった。その「気配」をなぜ「藝」という旧字を使い、それなのに「2.0」なのか。その経緯は、前著を参照してもらうとして、その原稿を書きながら、徐々に奇妙な二つの形象が現出してきた。「V」と「◯」である。しかも「いびつなV」と「いびつな◯」である。

いびつなV、いびつな◯、そして一休さん

 私は、「藝術2.0」(すなわち「GEIDO」)の萌芽を、「工芸」、「発酵」、「坐禅」、「カフェ」、「学び」、「コミュニティ」、「茶道」などと今は呼ばれている領野にとりあえずは探し求めたが、そうしているうちそれらに共通する実存的道程があることに気づいた。藝術家2.0=GEIDO-KA――JUDO-KAなどが国際語となっている昨今、こうした表現も許されるだろう――のほとんどが、この「有」の世界から己の実存を深掘りする行の道に入り込んでいく。そうして「無」「涅槃」などと呼ばれる境に辿りつく。そして、そのまま独行をつづけ、境のさらなる深まりに自らを委ねることもできようし、あるいは一念発起翻って、あえて立ち去ったはずの「有」の、衆生の世界に立ち戻り、その世界=〈有〉――一度は立ち去った「有」を解脱して「無」の境位から翻って離見するゆえに違う風貌で現出するので〈 〉付きで記載しよう――と「戯れ」なおすこともできる。しかも、彼らは、単に古来の「藝道」をなぞるだけに満足せず、そこに同時代的な「熱い」クリエーションを注ぎ込み、自らに特異な「サムシング・スペシャル」(小倉ヒラク)を創出するにいたる。その藝術家2.0ないしGEIDO-KAたちの実存的道程=「V」(「有」→無→〈有〉)は、しかし、各自――独行におけるように究めつづけることなく――哲学者の田辺元や禅僧の藤田一照も言うように人それぞれ究道を「差し控えて」も、「物足りない」ままでも肯んずるような、各々に「いびつな」V=道程で差し支えないのだ。
 そして、そうした実存的行=いびつなVを日々営む者たちは、ときに互いに互いを招き、円く座り、が、「中心」などを置かず、「中空」のままに、その一期一会に賭け、興じたりもする。その折々の円座=「いびつな◯」は、決して閉じられることはなく、むしろ見知らぬ「異人」をも平然と招じ入れてしまう「無条件の歓待」(ジャック・デリダ)といういたってラディカルな政治性すらもちうるだろう。
 そんな「いびつなV」たちの「いびつな◯」のフィールドワークを、『藝術2.0』では行ったといえる。そして新著『GEIDO論』は、それをさらに展開し、「GEIDO」という概念をよりシャープにするために、

酬恩庵

人によってはそれに見紛うかもしれない「限界芸術」(鶴見俊輔)や「民藝」(柳宗悦)といった概念とすり合わせつつ差別化し、フィールドも「性愛」や「貨幣」といった「禁断」の領域へと押し広げていった。
 ついには、千葉県・鴨川での林良樹らの「小さな地球」プロジェクト、そして私が京都で私淑する茶の「陶々舎」の活動に、これまでの文明を「反転」するやもしれぬ潜在力すら嗅ぎ出し、人類とガイアとの共―創造としての新たな文明の気運を探り出そうとした。
 ところが、執筆の最終段になって、突如として、私は車に乗り込み、京都市は京田辺に今はある一休寺こと酬恩庵に赴くことになる。なぜ、私はそこに引き立てられたのか。「一休さん」こと一休宗純こそ、当時の第一級のGEIDO-KAであり、GEIDOの「総合プロデューサー」だったことに突然気づいたのだ。しかも、彼は、GEIDOの探究=行を、同時代の藝道家たちと興じていたのみならず、森女という盲目の琵琶弾きとの睦みのなかでも堪能していたのだった…。

 こうして、古今東西の「冷たい」クリエーションと「熱い」クリエーションが相俟って、「GEIDO」という第三のクリエーションが紡ぎ出されるとともに、本書『GEIDO論』そのものもまた、一つの「GEIDO」であるかもしれぬことを、今これを書きながら改めて実感しているところである。



熊倉敬聡(Takaaki Kumakura)
1959年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒、パリ第7大学博士課程修了(文学博士)。芸術文化観光専門職大学教授。特定非営利活動法人アート&ソサイエティ研究センター理事。フランス文学 ・思想、特に詩人ステファヌ・マラルメの〈経済学〉を研究後、コンテンポラリー・アートやダンスに関する研究・批評・実践等を行う。大学を地域・社会へと開く新しい学び場「三田の家」、社会変革の“道場”こと「Impact Hub Kyoto」などの 立ち上げ・運営に携わる。博報堂University of Creativityにて講師を務める。主な著作に『藝術2.0』(春秋社)、『瞑想とギフトエコノミー』(サンガ)、『汎瞑想』、『美学特殊C』、『脱芸術/脱資本主義論』(以上、慶應義塾大学出版会)、編著に『黒板とワイン――もう一つの学び場「三田の家」』(望月良一他との共編)、『女?日本?美?』(千野香織との共編)(以上、慶應義塾大学出版会)、『practica1 セルフ・エデュケーション時代』(川俣正、ニコラス・ペーリーとの共編、フィルムアート社)などがある。

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アーティストは自然・環境・気候危機といかに向き合っているか?
Vol.1 “non-visible”

ソーシャリー・エンゲイジド・アート ダイアログ・シリーズ
Socially Engaged Art Dialogue Series


アート&ソサイエティ研究センターは2014年以降、社会的課題に取り組むソーシャリー・エンゲイジド・アートについての調査、研究、出版、展覧会や研究会の開催、アーティスト支援やプロジェクトの実践を継続しています。今回のダイヤログ・シリーズでは、自然、環境、気象変動に関心をもつアーティストが、地球環境における危急の課題にいかに向き合い、自らの創作活動との関わりをどのように捉えているか、生の声で聞き、聴講者と共にディスカッションします。
第1回目となる今回は、食や植物をテーマとして自然と人間との関係性を紐解く活動をおこなっている岩間朝子氏に、ご自身のこれまでの活動と自然や環境への想いをお聞きします。

開催概要

日 時 2021年9月16日[木]18:30–20:00
会 場 ZOOMによるオンライン開催
定 員 30名(先着順) 
参加費 無料

ゲストプロフィール

岩間朝子 IWAMA Asako

1975年東京生まれ。ベルリン(ドイツ)と東京をベースに活動。料理人としてのバックグラウンドをもつ岩間は、食べるという行為の社会的側面について共に考えるための実験的なワークショップやフィールド・トリップなどを行ってきた。最近の活動では、自然の諸要素と、身体の物質性あるいは主観性との関係の歴史的、技術的な変容を、型を取る、写す、採取するといった身体的関与を取り入れた制作を通じて考察を試みている。
Studio Olafur Eliasson(ベルリン)併設の食堂 The Kitchen の立ち上げ・運営にコックとして携わり(2005-15年)、『The Kitchen』(2013年)を共同編集。Jan Van Eyck Academy(オランダ、マーストリヒト)にて滞在制作(2019-20)。展覧会に、建築・デザイン イスタンブールビエンナーレ 5 (2021)、ヨコハマトリエンナーレ 2020 AFTERGLOW、東京都現代美術館(2020)、アーツ前橋(2017)、Den Frie Museum (コペンハーゲン)、 Haus der Kulturen Der Welt (ベルリン)、Museum of Contemporary Art Leipzig(ライプツィヒ)。

お申込み

定員に達しましたので、お申し込み受付を終了いたしました。ありがとうございました。

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主催:NPO法人アート&ソサイエティ研究センター

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RMCA国際デザイン・コンペに参加して

アート&ソサイエティ研究センターでは、COP26に関連した国際デザイン・コンペ「Reimagining Museums for Climate Action(RMCA)」に注目し、建築家と景観デザインの専門家に呼びかけてThe Water Seeds-Sumida River Design Collectiveを結成、都市を流れる川をミュージアムに活用するプランでこのコンペに応募しました(詳細はプロジェクトページ参照)。以下、このデザイン・コレクティブのメンバーとして参加したA&Sインターン、徳山貴哉さんのレポートを掲載します。


 

私が今回の国際デザイン・コンペへの参加を強く希望した背景に、その題目『Reimagining Museums for Climate Action (気候アクションに向けたミュージアムの再考)』への大きな共感があった。国際系の学部を卒業し、現在福岡にてメーカー勤務をしている自分は、元々アート専攻といったようなバックグラウンドは持ち合わせていない。しかし、学部時代から興味があった気候変動やソーシャルジャスティスなどのアクティビズムの事例を調べるにつれ、アートと社会の接点から世界にメッセージを訴えかける人々の姿に大きな興味と可能性を感じた。加えてミュージアムは、私にとって気候変動への危機感が自分事となった空間でもあったからこそ、なんとしても今回のコンペに携わりたいと強く懇願したのだった。

日加コンソーシアムでプレゼンテーションする筆者  Courtesy of Takaya Tokuyama

私は海外に行くと – その目的が旅行であっても何かのプログラムであっても – 空き時間を見つけてはコーヒーショップとミュージアムを巡るのを楽しみとしている。学生時代、日加コンソーシアムの学生フォーラムに参加するためにカナダの首都オタワを訪れた際も、空き時間を見つけてNational Gallery of Canadaに足を運んだ。「たまたま余っていたから」とフロントスタッフが無料で渡してくれたチケットが思い出深く、今思えば、その時手渡されたのは「小さなつながり」だったのかもしれない。その日の展示内容は、カナダの写真家Edward Burtynskyによる写真展《Anthropocene – the Human Epoch》。Anthropocene、通称「人新世 (じんしんせい)」とは、産業革命以降の人間活動による環境負荷が地球に半永久的な痕跡を残すほどのレベルに達し、地球の地質年代が完新世の時代から、新たな「人間の時代」に突入したことを指す。この用語によって、人間の地球に与える影響が無視できないほど大きなものとなっていることを警告している。展示エリアに足を踏み入れ、数々の美しい写真たちに近づくと、そこには自然の摂理では「起こり得ない現実」が映し出されていた。機器学的に掘り起こされた地面、色鮮やかなゴミの山、伐採地帯と森林のコントラスト。目の当たりにした「新たな現実」が自分に流れ込み、美しさと悲しさの入り混じった感情が心に湧き上がり、思わずその場に立ち尽くした。度々口にしていた「自分事にする」という言葉の重みを、初めて受け取ったように感じた。今でも鮮明に覚えているあの時の感情は、今振り返っても大きなターニングポイントだったと確信している。あの瞬間から、自分が「見えていない現実」に目を向けること、そして自分の持つ特権 (Privilege)について、常に意識するようになった。

この「見えていない現実」は、現代のグローバル化によって負の影響を受けている世界中の場所や人々を意味する「グローバル・サウス」という概念で説明されている。昨今話題の著書『人新世の「資本論」』[1]によると、資本主義における先進国の豊かな生活の裏側では、様々な被害や悲劇がグローバル・サウスに集約され、あらゆる災害、人災、環境破壊などは、遠い地で起きた「不運な出来事」として先進国とは切り離され描かれてきた。しかし同書が示すように、日本をはじめとする先進国は、間違いなく今日のグローバル・サウスの問題に加担してきたのだ。

この現状が続く原因の一つとして、「つながりの欠如」が挙げられるだろう。日々の生活で目にする物資の多くは、グローバル・サウスから複雑なサプライチェーンを経由し先進国へと送られてくる。しかし資源の出所である「遠い地 (見えていない現実)」の実情について、私たちは一体どれだけ理解しているのだろうか。ある種「ソーシャルディスタンス」が世に浸透するずっと前から、私たちと社会の距離は日に日に遠ざかっていたとは、なんとも皮肉な話である。しかし、私たちと社会の “ソーシャルディスタンス” が深まる一方で、人権、気候、ジェンダー、貧困など、すべての問題は相互に作用し合い、その被害はグローバル・サウスへと不平等に分配されていく。にもかかわらず、例えば気候危機というグローバルな問題が、社会の断片化(≒つながりの欠如)を背景に、どこか「他人事」のように扱われてしまう。現代を生きる私たちが問われているのは、そんな断片化された世界とのつながりを取り戻すことなのではないだろうか。

同書の終盤では、解決の糸口としてミュニシパリズム(地方自治主義)の事例が紹介されている。国境を超え、世界中のさまざまな都市や市民が自治体レベルで連携し合いながら革新的な都市改革を行うミュニシパリズムが、バルセロナをはじめとする世界中の地域に広がり、新たなエコロジカルな民主主義社会を築こうとしている。ローカルとグローバルが交錯しながら、市民による積極的な政治参加を通じて、社会のつながりを取り戻そうとしているのだ。ここに、今回の「Water Seeds」プロジェクトのさらなる可能性を感じてならない。歴史的に人々の生活の基盤を担ってきた隅田川を、パブリックスペースとして再び地域社会へと開き、ローカルコミュニティおよび世界の都市とのグローカルな連帯を育みながら、気候アクションを広げていく。人々がつながり、学び、そして行動の実践へと発展していく「Water Seeds」という空間は、地域、国境を超えたアートと社会の接点を生み出し、大きなアクティビズムを後押しする新たなミュージアムのあり方を示すと同時に、日本におけるミュニシパリズム発信の拠点として大きな可能性を秘めていると強く感じている。

この「つながりを取り戻す」という文脈と並行し、今回のコンペティションの審査員の一人であるMiranda K. Massie氏は、気候アクションにおける「対話」の重要性について言及している。Massie氏はインタビュー[2]の中で、気候ミュージアム、通称アクティビスト・ミュージアムという空間は、①気候変動についての「対話」の場である、②気候アクションを実施する場である、③インクルーシブな共同体を創造する場である、ことが必要だと説いている。気候危機というグローバルな問題を前に、人々が沈黙や絶望感に陥ってしまうのではなく、まずは「対話」という小さな一歩を促し、共同体としてアクティビズムを拡大させながら、さらなるアクションへと発展させていく。「対話」という気候危機への積極的な関わりを促すことで、共同体としてより大きな気候アクションの実現を目指すのだ。

ここで重要なのは、「対話」とは意見の一方的な伝達ではなく、コンシャスネス・レイジングのように、セーフスペースの中で各々の考えや経験を語り合いながら、知識の共有や自己内省へと発展させていくということだと思う。用意されたレールをただ歩き、明確に設定された目的地へと向かうのではなく、一人ひとりの主体性を前提に、人々が対話を通じて目的地を模索しながら、共に歩みを進めていく。言い換えると、対話とは、今歩んでいる道を自分たちの手で正しい道にしていく、という強い意志を育む場でもあるということだ。気候危機に対して、自分の行動の規模や影響力の大きさにかかわらず、自分が自分の行動の主体として生きる意思を持って取り組むことこそが、共同体全体の大きなエネルギーとなるのではないだろうか。

自分が福岡市在住ということもあり、那珂川沿いを散歩すると、ふと福岡版Water Seedsプロジェクトの展開について想像する。そしてその度に福岡でのWater Seedsは、隅田川で展開するWater Seedsとコアバリューを共有しながらも、全く異なった表情をしているだろうと感じている。非常にコンパクトでアクセスの良い福岡市内の中心を流れる那珂川が、新たなパブリックスペースとして地域に開かれたとき、屋台文化に続き、どのような都市の新たな交わりが生まれ、どのような地域の共同体意識が育まれるのか。そんな考えを巡らせながらいつも思うのは、人間的な営みの中に完全な再現性は存在しないということだ。たとえ同じ枠組みを展開したとしても、展開される地域、利用する人々、その地域ならではのカルチャーによって、Water Seedsは全く違ったものになるだろう。そしてその不確定さを持ち合わせていることこそ、Water Seedsの大きな魅了の一つではないだろうか。あるべき姿を設定してそこから逆算的にではなく、多様な接点が生まれやすい空間づくりと、そこから新たなアクションへと発展できる「余白」を常に持ち合わせているWater Seedsは、人間的な営みの魅力そのものであると感じている。

福岡市を流れる那珂川 photo:Michiko Akiba


ここで、先日読んだ『ひび割れた日常 − 人類学・文学・美学から考える』[3]の中で語られている「足し算の時間」について紹介したい。私たちは、未来のある地点から逆算して現在の行動を決めるという「引き算の時間」をベースに物事を考えてきた。最近ではオリンピックの誘致が、その最たる例と言えるだろう。しかし、本書ではパンデミックが引き起こした「引き算の不能」によって、私たちの生活の中に、今できることを少しずつ足していく、不均一で、より生理的な「足し算の時間」が生まれたのではないかと指摘されている。常に合理性と効率化を念頭に置く今日の社会は、明らかに「引き算の時間」をベースに成り立っている。しかし、限定合理性という言葉が示すように、私たちが見出す合理的な意味とは、あくまで自分たちが認識できている範囲(もしくはそれ以下)でしかない。大いなる自然に背を向けて経済成長を追求した結果、気候危機やグローバル・サウスの深刻化を招いている今日の現状は、私たちの合理性の限界を示しているのではないだろうか。
私は同書で示される「足し算の時間」が、ここまで語ってきた「つながりを取り戻す」ことに通じていると感じてならない。気候危機に対し、一人ひとりが行動の主体として大きな共同体を形成し、対話と行動の中で目的地を模索していく。その過程で、私たちが断片化された世界と、地域社会と、人々と、そして自分自身とのつながりを取り戻すとき、私たちは「明日何が起こるのかも分からない」という予測不能性を受け入れながら、常に世界に対して謙虚さを持って生きていくことができると思う。「分断」ではなく、常に「かかわること」を選択し、対話の中でより良い世界を目指していく。これからも世界との間に、能動的で、積極的な人間的つながりを育んでいきたい。

東京湾に注ぐ隅田川 photo:Michiko Akiba



[1] 斎藤幸平 (2020)『人新世の「資本論」』、集英社
[2] https://climatemuseum.org/blog/2020/7/28/museum-programming-for-civic-engagement-on-climate-change-with-miranda-massie?fbclid=IwAR1wu7AXJvO4JAxoLI0fsyLgX4oKqAoVX2W3Mbs8HreAguJ01J0ux47XtnI
[3] 奥野克巳、吉村萬壱、伊藤亜紗 (2020) 『ひび割れた日常 − 人類学・文学・美学から考える』亜紀書房

徳山貴哉 (Tokuyama Takaya)
1997年生まれ。ソニー株式会社のセールス&マーケター、アート&ソサイエティ研究センターのインターンシップ生。関西学院大学で学士号を取得し、現在、福岡の地域コミュニティ・プロジェクトとペルーのスタートアップ・プロジェクトの両方に携わっている。2020年には、内閣府の「世界青年の船」事業(SWY32)に日本代表として参加。

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